学童疎開船「対馬丸」に乗りそびれ生き残った方に会いました
昨日お会いした方が、戦時中沖縄から本土に学童疎開のため「対馬丸」に乗ることになっていたけれど腹痛を起こし乗船できず、命が助かったという話をして下さいました。この方はその後も海難事故を逃れ、阪神大震災で家を失うも命は助かり、池田に転居してこられたそうです。
「対馬丸」…アメリカの潜水艦に撃沈された学童疎開船として映画上映された記憶があります。
改めて調べてみると、1941年12月にはじまったアジア太平洋戦争で、日本軍は敗戦を重ねるようになり、ついにサイパン島が占領されると、「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県のお年寄り・子ども・女性たちを島外へ疎開させる指示を出したようです。
しかし県民の疎開はなかなか進みまなかったらしい。「勝つ、勝つ」を繰り返す軍の言葉に、沖縄が本当に戦場になるのか判断がつかず、また周辺海域の危険を知っていた県民にとって、船に乗ることは一つの「賭け」だったのかもしれません。
一説には、多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になったため、足手まといになる民間人を県外へ移動させたかったとのだともいわれています。
1944年8月21日、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員など1788名を乗せ、長崎を目指し出航しました。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまいます。
ほとんどの乗船者は船に取り残され、海に飛び込んだ人は台風の接近に伴う高波にのまれたそうです。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたそうです。
救助された人々には箝口令がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられ、犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはありませんでした。対馬丸撃沈事件が知られるようになったのは戦後しばらく経ってからで、大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になったことから、戦後「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」として語られるようになっていったとのことです。
戦争の被害者は戦った兵士だけでなく子どもやお年寄りなど一般市民が圧倒的。310万人の日本人2000万人のアジアの人々の命を奪いました。
今、安倍政権はしゃにむに集団的自衛権の行使を狙っていますが、あの戦争の教訓から二度と戦争はしないと憲法に刻まれたのではなかったでしょうか。だからこそ世界から信頼を勝ち取ってきたのではなかったのでしょうか。武器を持たない国を襲うことは許されませんが、武器を持ち戦争を仕掛けるのではないかと思われたら、それこそ「やられる前にやり返せ」となるのではないでしょうか。
対馬丸の悲劇を繰り返すな!解釈改憲を許さず憲法9条を守り、「憲法9条にノーベル賞」を受けさせようではありませんか。