いつまで「モリカケやってんの?」論をどう見るか
新聞の整理中、5月31日付の毎日新聞夕刊「特集ワイド」…「たかがモリカケ」なの?…の記事が結構大きく取り上げられていました。次のように…。
・・・次から次へ、週替わり定食のように新たな文書が飛び出してくる。森友・加計学園問題、いわゆる「モリカケ」問題である。(5月)21日には愛媛県が、加計学園問題を巡る安倍晋三首相のこれまでの説明と異なる内容の文書を国会に提出した。・・・
「たかがモリカケでいつまで騒ぐのか」といらだつ人もいるだろう。「外交や安全保障、憲法改正など、国会で議論すべき大切な問題はほかにある」との声も聞く。
確かに1年以上、国会でもメディアでも問題が取り上げられてきた。でも「たかがモリカケ」のはずが、国会に出された文書は改ざん、あるいは廃棄され、変遷する政府幹部の説明は信用できない。
こんな状態で、安保や外交などの議論がきちんとできるのか?「いつまでモリカケ」論をどう思うか。政治家や法曹関係者らを訪ね歩くと、それぞれの立場からぐらつく「国のかたち」への危機感をあらわにした。
こうして「特集ワイド」は、自民党の村上誠一郎元行政改革担当相の声を聞きます。「『たかがモリカケでいつまで騒ぐんだ』論をどう思うかって?話にならないね。今起きてることは民主主義の危機なんだ」「『もっと大切な議論を』というが、その議論を信を失いつつある現政権に任せられるか。『たかがモリカケ』でこの有り様なのに、安全保障や外交でまともな議論が期待できるか」…全くその通りです。
弁護士の伊藤真(日本弁護士連合会の憲法問題対策本部副部長)さんは、「『たかが森カケ』という人は『政治家や官僚は常に正しい。ゆえに国民は彼ら(自分たち)に従っていればよい』という価値観があるのではないか」と疑います。
「民主国家では国政の最終意思決定者は国民です。政治家や役人は、国民の代表として一時的に意思決定を代行しているに過ぎません。人間は誤りを犯す。決定が正しいかどうか、その時点で判断できません。だからこそ、後で判断する材料として、決定過程の記録を残すことが必要なんです。これで国民が為政者を交代させるかどうか判断し、選挙権を行使する。これが国民主権、民主主義の要です」と言います。
しかし、政治家や官僚が、実は国民を意思決定権者とみなしていなければどうか。
「国民の判断材料となる記録の扱いに注意を払わなくなり、記録の改ざんや隠ぺい、廃棄が平然と行われる。モリカケ問題の本質を軽視する人は、実は国民を主人とは考えていないのではないか、とすら思えます。この国の主権者は誰か、という『国のかたち』の根本が問われているのです。
伊藤さんは、「モリカケと同一線上にあるのが、陸上自衛隊の日報問題で、意味するところは実に深刻だ」と言います。日報は自衛隊の海外活動の検証に必要な資料ですが、現場レベルで勝手に「ない」ことにされたが後で見つかり稲田大臣が責任を取らされています。現場が気に入らない大臣の責任や不祥事を勝手に作り出すことが出来ることを意味し、戦前の軍部と同じだと警鐘を鳴らします。
日報問題を棚に上げて改憲論議ができるのか。まず、「民主国家の基本を再確認すべきです。これを無くして改憲論議だなんて100年早いと思う」と伊藤さんは言います。
官邸経験者の孫崎亨さん(元駐イラン大使)は官僚や行政機関が情報を歪め国を誤らせた事例は少なくないと、イラク戦争で大量破壊兵器がないのにあると言い切って攻撃に踏み切ったこと、湾岸戦争では多国籍軍に資金提出した日本にクウェート政府は手厚く感謝したにもかかわらず、外務省は日本に伝えず、逆に「金だけ出して日本は感謝されていない」と世論をつくったのだと言っておられます。
安倍内閣が内閣人事局をつくって省庁人事を一元化してからは、不利な人事をされないため、事実であっても官邸に都合の悪いことは言わない官僚が増えたようだと指摘。
「たかがモリカケ」なんてとんでもない。ゆがんだ情報は、ゆがんだ政策しか生みません。…ということで、首相が3選を目指す前に、まずはモリカケ問題にけりをつけ、政治不信の値を断つのが宰相の仕事だろうと締めくくっています。
本当にそうだと思います。モリカケ問題さえ解明できない安倍政権に政治をつかさどる資格はありません。自民党の中からも批判されている安倍内閣は、もういい加減に退場すべきです。