昭和から明治、そして古代へ
九州の旅もいよいよ最終日、昭和、明治と遡り、最後のタイムスリップは古代へ。
大宰府へ足を伸ばしました。大宰府政庁跡地は広大な敷地でした。
大宰府は、日本古代律令国家の外交、軍事、九州全体を統括するという3つの役割を持っていました。外交の窓口として、外国人が出入りする施設として、ゆったりと敷地いっぱいに建設されていたようです。門に回廊、正殿、脇殿など、瓦葺の楼閣状の荘厳な建物群があったと考えられています。
発掘調査の結果、7世紀後半から11世紀前半頃までの遺跡が確認されており、今は史跡公園として整備されています。
隣接した展示館には、ボランティアガイドの方が、この地に政庁が置かれた歴史的背景を説明してくださいました。 政庁復元模型や大伴旅人が開いた歌宴の再現、玉石溝(石敷溝)などが展示されていました。ガイドの方はもっと喋りたそうにしておられましたが、時間があまりなくちょっと残念。
せっかくですから、天満宮も駆け足で見学。
菅公歴史館には、天神様といわれる菅原道真の一生を綴ったジオラマがあり、人々がいろいろな願いとともに奉納したり、願いがかなったお礼に収めた人形や玩具、絵馬等の宝物が展示されています。ジオラマは博多人形で作られていました。さすが福岡県です。
菅原道真は、5歳で和歌を、11歳で漢詩を読むなど学問に秀でるだけでなく武道の腕も優れ文武両道の人、外交官としても、情け深い政治家としても名高く、右大臣にまで出世をするのですが、それをねたんだ藤原時平(歴史上、藤原という名にあまり良い名はないな~?)のざん言により大宰府へ流されることになりました。
このとき詠んだ歌が、あの有名な
こちふかば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ ですね。
大宰府の役人として左遷されましたが、実際は幽閉生活を送り都に帰ることなく59歳で亡くなったそうです。その亡骸を乗せた牛車が動かなくなった地に葬ったとのこと。その地が現在の太宰府天満宮本殿だとか。ですから牛の像が敷地内にあり、参拝者がそれをなでていました。かしこくなる?
参道のいたるところで「梅が枝餅」が売られ、みんなそれをほうばりながら歩いています。食べものに弱い私たちも、「1個下さ~い!」。
広い敷地で、大きな庭園もありましたが、そこそこにして、九州国立博物館へ。
ここでは「よみがえる国宝」と題した特別展が開かれており、源頼朝の大きな掛け軸もありました。
文化財の保存、修理、模写・模造、保護のために実施されていることを系統的に展示されていました。虫干しを兼ねた展示会、巻物の折り目から虫食いが広がっている部分を修復する作業、頼朝の掛け軸は汚れを取り除くと着物の地模様まで見えてきた、などなど技術の粋を集め守られていることが判りました。
この日は時間も少なく駆け足の見学となりましたが、福岡空港から伊丹へ帰ってくるとタイムスリップがとけ、下界へ帰ってきたようでした。
3日間のいのちの洗濯は、これでおしまい。