藤原みち子の活動日記

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“子どもたちに笑顔、若者に夢、高齢者に安心を” 日本共産党池田市会議員・藤原みち子の活動日記 e-mail : m_fujiwara@wombat.zaq.ne.jp

カテゴリ:旅紀行( 8 )

2015年6月29日(月)

c0133422_1381362.jpg 民商婦人部のひと月後れの「母の日旅行」に参加させていただきました。

 業者婦人は妻であり、母であり、事業のパートナーとして二重三重の苦労があります。なかなか自分の時間が取れず、お母ちゃんたちが自ら勝ち取ったのが「お誕生会」…自分たちで祝い合う会と「母の日」なら旅行に行ける、でした。かつては一泊旅行でしたが、景気悪化の昨今、旅行者の日帰りc0133422_139215.jpg旅行に参加して、母の日の一日を楽しんでいます。

 今日は、舞鶴のアジサイ園からすたーと。山の一角に5万本の紫陽花が植えられ一面に色とりどり各種のの花々が咲き誇ります。壮観でした。いったい何種類の花があるのでしょう。

 天橋立シーサイドレストランで昼食(握りずしとお造り、アワc0133422_1464573.jpgビとホタテ)と果物(メロン、巨峰、さくらんぼ)の食べ放題。食べ放題と言われてもそうそう食べられるものではありませんね。みなさんお寿司よりも果物のおかわりが多かったようです。

 食事の後は、丹後の伊根漁港めぐり。海から舟屋を見る趣向で遊覧船に…。230ほどの舟屋が並んでいます。かつて映画・寅さん(男はつらいよ)舞台にもなっていましたね。
c0133422_1474863.jpg 遊覧船から餌を投げるためカモメの群れを間近に見ることが出来ます。沖に向かうと、カモメだけでなくトンビまで餌を求めて船の周りを飛び回り、かっぱえびせんを手に持つとカモメが直接手元まで取りに来るんです。舟屋を見る前にカモメとのひと時を過ごすことに。

 朝は少し曇っていましたが、良いお天気になり、午前7時40分~午後7時20分の旅を楽しんできました。
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by michiko_fujiwara | 2015-06-29 23:47 | 旅紀行
 2011年8月20日(土)   <大宰府へ>
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 九州の旅もいよいよ最終日、昭和、明治と遡り、最後のタイムスリップは古代へ。

 大宰府へ足を伸ばしました。大宰府政庁跡地は広大な敷地でした。


                                   
c0133422_2331382.jpg 大宰府は、日本古代律令国家の外交、軍事、九州全体を統括するという3つの役割を持っていました。外交の窓口として、外国人が出入りする施設として、ゆったりと敷地いっぱいに建設されていたようです。門に回廊、正殿、脇殿など、瓦葺の楼閣状の荘厳な建物群があったと考えられています。

 発掘調査の結果、7世紀後半から11世紀前半頃までの遺跡が確認されており、今は史跡公園として整備されています。

 隣接した展示館には、ボランティアガイドの方が、この地に政庁が置かれた歴史的背景を説明してくださいました。 政庁復元模型や大伴旅人が開いた歌宴の再現、玉石溝(石敷溝)などが展示されていました。ガイドの方はもっと喋りたそうにしておられましたが、時間があまりなくちょっと残念。

 せっかくですから、天満宮も駆け足で見学。

 菅公歴史館には、天神様といわれる菅原道真の一生を綴ったジオラマがあり、人々がいろいろな願いとともに奉納したり、願いがかなったお礼に収めた人形や玩具、絵馬等の宝物が展示されています。ジオラマは博多人形で作られていました。さすが福岡県です。

 菅原道真は、5歳で和歌を、11歳で漢詩を読むなど学問に秀でるだけでなく武道の腕も優れ文武両道の人、外交官としても、情け深い政治家としても名高く、右大臣にまで出世をするのですが、それをねたんだ藤原時平(歴史上、藤原という名にあまり良い名はないな~?)のざん言により大宰府へ流されることになりました。

 このとき詠んだ歌が、あの有名な 
 こちふかば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ     ですね。

 大宰府の役人として左遷されましたが、実際は幽閉生活を送り都に帰ることなく59歳で亡くなったそうです。その亡骸を乗せた牛車が動かなくなった地に葬ったとのこと。その地が現在の太宰府天満宮本殿だとか。ですから牛の像が敷地内にあり、参拝者がそれをなでていました。かしこくなる?

 参道のいたるところで「梅が枝餅」が売られ、みんなそれをほうばりながら歩いています。食べものに弱い私たちも、「1個下さ~い!」。

 広い敷地で、大きな庭園もありましたが、そこそこにして、九州国立博物館へ。

 ここでは「よみがえる国宝」と題した特別展が開かれており、源頼朝の大きな掛け軸もありました。

 文化財の保存、修理、模写・模造、保護のために実施されていることを系統的に展示されていました。虫干しを兼ねた展示会、巻物の折り目から虫食いが広がっている部分を修復する作業、頼朝の掛け軸は汚れを取り除くと着物の地模様まで見えてきた、などなど技術の粋を集め守られていることが判りました。

 この日は時間も少なく駆け足の見学となりましたが、福岡空港から伊丹へ帰ってくるとタイムスリップがとけ、下界へ帰ってきたようでした。 

 3日間のいのちの洗濯は、これでおしまい。
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by michiko_fujiwara | 2011-08-20 23:40 | 旅紀行

お金はある時払いじゃ

 2011年8月17日(水)  <湯布院パート6>
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 湯布院には明治時代の病院が、国指定重要文化財として残されています。大分県下最古の擬洋風建築で明治27年に日野医家3代目によって建てられたものだそうです。

 診察室や待合室、薬室のある本館と別棟の病棟、医師や看護師の休憩所として使われたと思われる離れが文化財の対象です。木造2階建て。見た目は洋風ですが、中国風でもあり和風でもあり面白い建物です。離れには韓国で見かけるオンドル(床暖房)が施されています。

 庭園には、日野家4代目の日野淑子医師の像がありました。日野淑子医師はこの地で82歳まで聴診器を握りカルテの上に、さらさらとドイツ語を走らせておられたとか。数少ない女医として幾つもの賞や勲章を得ています。議員も勤められ名誉町民。展示された書を読むと何と私と同じ誕生日(1月18日)。奇遇ですね~。

 雑誌のコピーと思えるものが置いてあり、手にとって見ると、日野淑子医師は東京医専で学び、東京の病院で勤務していたそうで明晰な標準語をつかわれるそうですが、地域の人々に親近感を抱かせながら診察するために、方言が身についておられると紹介されています。

 小郷しず子さんという方が、「まこと哀しや大分弁」という文章のなかで日野医師の語り口をメモし、まるで抒情詩のようだと感心しておられます。その一部を紹介しますと

 油屋熊八さんの頭縫うた事がある 雪柳がさらさら揺れよったけん 早春の事じゃったろうなあ 別府から峠を越えてきた熊八さん 川のほとりで 馬から落ちたんよ 頭ぁかち割って血だらけ 熊八さんは落ちついちょったが お供ん衆(し)の方が ぎゅうらしゅう騒動して うちにかつぎ込んだ 私がぷつぷつ縫いよんのに 「医者はおらんのか 早う呼べ」 私を看護婦かと思っちょんのじゃ そんな頃は おなごの医者やら 珍しかった時代じゃったもんな

 なんだか落語の一説を聞いているような気がします。笑い事ではないのですが…なんとも方言とは良いものですね。

 こんな一説も

 お金はある時払いじゃ それも盆と正月の2回じゃな かつがつイノチキしよん者に(よく言葉がわからない) お金払え ち言わるるかえ 今の医療制度ちゅうのは しゃあしい事が多いなあ 好かんよ 私は 昔んように 患者さえ ようなりゃいい ちゅうような治療をしたいなあ  

 戦争中は男性医師が軍医として出征していたため、馬に乗り牛に乗り、竹籠やもっこに乗り山を越え、幾つもの村を往診に回ったそうですが、まるで女赤ひげ先生ですね。(かつて、日本共産党のくつぬぎタケ子元参議院議員・医師がジェーン台風のとき筏に乗って診療に回ったという話を思い出しました)

 医師の原点のような言葉です。「今の医療制度ちゅうのは好かんよ」、先生もそう思っておられたんですね。この先生のように「お金がなくても患者が良くなれば良い」と言えるようにするには、国の診療報酬のあり方、医療抑制をさせるような仕組み、入院日数の制限など患者目線で見直すことが必要だと改めて考えさせられました。

 前日の昭和館からこの日は明治時代へと遡りました。
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by michiko_fujiwara | 2011-08-18 01:05 | 旅紀行
 2011年8月14日(日)  <湯布院スケッチ・パート5>
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 湯布院の2日目は、沖縄を襲った台風のせいで時折雷をともなう雨の一日でした。

 日本一の長さと高さの吊橋と銘打った「九重“夢”大吊橋」を歩きました。2006年10月にオープンした橋で、年間200万人が渡っているとのこと。東洋一、世界一と言われるそうですが、パンフレットには日本一とだけありました。

 歩き始めは雨が降り止んでいたため不要かと思いましたが、カッパを来て正解(傘は危険なので使用禁止)。高さ173メートル、長さ390メートルですが意外に橋がしっかりしていてあまり怖さは感じませんでした。中ほどまで歩くと下から吹き上げる風と降り始めた雨が足元をぬらし、立ち止まって景色を眺めるよりも早くわたりきろうとと急ぎ足に。

 日本の滝百選というのがあるそうで、吊橋からはそのひとつ「振動の滝」雄滝と少し離れて雌滝が見えました。秋であれば周りが一面の紅葉で絶景でしょう。
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 九重連山の黒嶽から湧き出る水が名水百選に入っているとのことで、その場所へと向かいました。写真を撮ってみましたが雨粒で水が湧き出ているところはよくわかりません。雨で夕方のように暗く残念でしたが遊歩道はとても良い散歩道、お天気の日でも涼しいだろうと思います。遊歩道には刈り取った小枝や枝葉などを細かくチップにしたものが敷き詰めてあり、ふわふわ感のある足に優しい小道です。これは池田の散歩道にも使えそうだなと思いました。

 ところどころ咲いている花を見てあれは何の花だろう?と言いながら湧き水の場所に到着、名水は雨のため飲むことが出来ずちょっと残念。しかし、このあたりには炭酸水も湧き出ているんだとのこと、早速連れて行ってもらいました。

 屋根があり、水道の蛇口がつけてあって水は流しっぱなし。飲むと確かに炭酸水。お砂糖を少し入れるとサイダーに。沢山のペットボトルを持ってきて汲んで帰る人もいました。名水百選はあちこちにありますが、炭酸水の飲み放題は初めてです。

 由布・九重連山は自然の宝庫ですね。
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by michiko_fujiwara | 2011-08-15 01:06 | 旅紀行
 2011年8月13日(土)晴れ   <湯布院パート4>
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 山下清原画展を出ると1階には「湯布院昭和館」があります。

 分校の教室には、木琴やオルガン、アコーディオン、大きなそろばん、地図、給食の食器があり、いや~懐かしいと手にとって見ましたが中々音が出にくい…そりゃー空気を入れていないですから仕方ありません。
                                   
 通路には3輪自動車、c0133422_23262477.jpgダイハツミゼット?と思いましたがダイハツマークはありませんでした。壁には昭和30年の物価表がありました。

 当時の国家公務員の給与は高卒初任給で5,900円。白黒TV14インチで12万9000円…とても高いものでした。一部の家にしかTVはない時代です。電気屋さんに相撲を観にいったものです。電気冷蔵庫・74,000円、電気洗濯機30,000円、電気釜・9,000円、当時は1ヶ月の給料の何倍もの値段でc0133422_2325622.jpg
電化製品のある家は裕福な家だったといえます。 車は約100万円(クラウン・セドリック)です。 

 郵便料金・ハガキは5円、森永のキャラメル一箱20円、週刊誌30円、ガソリン1リットル45円、灯油18リットル360円。車もぜいたく品ですからガソリンの値段はそうだったのかという程度、灯油も使っていなかったのでふ~ンです。でもキャラメルはそのくらいの値段だったかも…。

 当時の横丁を再現していましたが、タバコ屋さんには赤電話、切手も売っています。喫茶店には昔なつかしジュークボックスが、床屋、お医者さん、写真館、雑貨屋さん、家庭の居間や台所の再現もあり、ひと時昭和にタイムスリップしました。
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by michiko_fujiwara | 2011-08-13 23:31 | 旅紀行
 2011年8月10日(水)晴れ  <湯布院パート3>
                                   c0133422_23565927.jpg  
 湯布院の山下清原画展は、緻密な貼り絵、マジックで描いた絵、色鉛筆で…といろんな手法で書かれた絵がたっぷり。ところどころ日記も公開されこれが実に楽しく、文章はちっとも整っていませんが思ったままを口に出したとおりに日記にしたためたといった感じです。
                                   
 山下清は、大正11年3月10日、東京市浅草区田中町(現在の東京都台東区日本堤)で生まれました。c0133422_031082.jpg
3歳の時に重い病気にかかり、運良く一命は取りとめたものの、これがきっかけで軽い言語障害となり、更に知的障害に進行してしまったとのこと。

 言語障害、知的障害が原因で、周囲の子ども達から虐められるようになり、更に、父が病死するなどの苦難が重なる中で、虫取りや家にこもって絵を描くなどの孤独な毎日を過ごしたそうです。虐めがエスカレートすると、ついに暴力沙汰を起こすようになり、思い余った母が、清を千葉県の養護施設「八幡学園」に入園させたのです。
                                  
 学園教育の一環として行われていた「ちぎり絵」との出会いにより画才を開花させ、独自の技法による「貼り絵」に発展させていきました。早稲田大学での「特異児童労作展覧会」でその才能を高く評価され、多くの人々から賞賛されますが、梅原龍三郎も清を高く評価した一人であったと言われています。

 しかし学園生活にも束縛感を覚え、昭和15年に突然、八幡学園から姿を消します。これが放浪の始まりと言われます。このとき、太平洋戦争の開戦の前年。清18歳。やがて徴兵され戦地に出兵することに恐怖を感じ、さらに放浪を続ける結果となります。

 絵と絵の間に紹介されている清の日記には、「僕は八幡学園に六年半も居るので 学園があきてほかの仕事をやらうと思ってここから逃げていかうかと思っているので へたに逃げると学園の先生につかまってしまふので上手に逃げようと思って居ました」と、初めて放浪に出たときの動機を書いています。

 「もうじき兵隊検査があるので もし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ戦地へ行ってこわい思いをしたり 敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました」とも書かれていました。

 山下清が放浪に出た理由は「学園生活の飽き」であり、さらに放浪を続ける原因となったのが「戦争に行きたくなかったこと」でした。しかし、もっと根底にあったものは自由でいたいという願望だったようです。

 清の放浪生活は、暑い季節は北へ、寒くなってくると南下するといった、まさに本能の赴くままの旅。そして、この放浪で清が求めたものは、何もしないで「ぼうっ」としている時間であり、それこそ清の自由な空間だったのではないかと思います。

 ドラマなどでは旅先で絵を書くシーンが何度も出てきますが、実際は旅先で見た風物を自分の脳裏に鮮明に焼きつけ、実家や八幡学園に帰ってから自分の記憶によるイメージを描いていたのだそうです。数ヶ月間、時には数年間の放浪生活から帰った清は、驚異的な記憶力により自分の脳裏に焼きついた風物を鮮明に再現していたのだとか。
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 清は花火が大好きで、各地の花火を色鮮やかに表現しています。富田林の花火というのもありました。PLの花火でしょうか。中でも新潟の花火が一番好きだと書いてありました。

 
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by michiko_fujiwara | 2011-08-11 00:07 | 旅紀行
 2011年8月8日(月)  <湯布院パート2>
                                  
 タクシーの運転手さんによると、湯布院町の人口は約1万3000人。観光客は年間約300万人とのこと。温泉の町なのに結構若者や子ども連れの若い親子を沢山見かけました。
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 いろんなお店が並んでいますが、似顔絵を書いている人を2~3人見ました。横に置かれている看板が実に愉快。

 旅人の肖像・見たまんま1,000円、ちょっと良く描く3,000円、もっと良く描く10,000円、マンガ風1,000円、カップル2,000円、ヌード上半身・全身・時価、若く美しく描きます。と書かれていて笑いました。座っていたのは若い2人の女性、充分見たまんまで描いてもらえそうです。
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 こんな看板もありました。「本日は気分がいいのであけてます」…遊び心たっぷりの街です。昔ながらの店や今風の店が混在していますが、古い建屋を生かしたレトロな街並みが懐かしさを感じさせるのでしょうか。

 街並みの中に「山下清原画展」の看板と「湯布院昭和館」を発見。思わず足を踏み入れました。(つづく)
 
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by michiko_fujiwara | 2011-08-09 01:03 | 旅紀行

湯布院と由布院

 2011年8月7日(日)
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 夏休みをいただいて大分の湯布院に旅してきました。

 福岡空港から1時間40分バスで移動し、山に囲まれた自然豊かな温泉地です。大きなものは建てないようにとの申し合わせがあるようで、城崎とはまた違った街並みです。何となく旅人をほっとさせる街です。
                                   
 宿は会員制の「由布院倶楽部」。c0133422_1302498.jpg
駅に近く由布岳を望む立地なのに、格安のお値段で宿泊させてもらいました。街の住居表示は「湯布院町」、ホテルは「由布院倶楽部」。「湯と由、一体どちらが正しいんですか?」と尋ねますと、「どちらも正しいんです」。

 「湯布院」町は昭和と平成の2度の合併を経て、現在は由布市湯布院町。1955年の昭和の大合併の際に、由布院町と湯平村が対等合併し湯布院町が発足。両者の文字を取り入れた町名となったとのこと。平成の大合併で2005年10月に、挾間町・庄内町と合併をして由布市になり、自治体としての湯布院町は消滅したそうですが、旧町域にある大字の頭に付く形で残っているということのようです。

 町名とインターチェンジは「湯布院」で、駅名と温泉名は「由布院」。小学校は「湯布院」で中学校は「由布院」と二つの名前を持つ街です。などとタクシーの運転手さんが話してくれました。
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by michiko_fujiwara | 2011-08-08 01:34 | 旅紀行

“子どもたちに笑顔、若者に夢、高齢者に安心を” 日本共産党池田市会議員・藤原みち子の活動日記 e-mail : m_fujiwara@wombat.zaq.ne.jp


by michiko_fujiwara